エッセイ
掲載誌:毎日新聞 2004年5月7日掲載紙面より
窓辺のダンス
言葉で埋まった頭を切り替えるために、書斎の窓を開けた。爽やかな風が入ってくる。頬杖をついて暫し休憩。部屋を通り抜けてゆく風の道を感じるために、深呼吸をしてみる。
家で仕事をしていると、本意ではないものの、冬は暖房、夏は冷房を掛けざるを得ない。それで、窓はほとんど閉じられることになる。そう、一年の中でもほんの短い期間を除いては。梅雨に入る前の新緑の頃と、蝉しぐれから虫の音に替わる束の間以外は、だ。
目の前でレースのカーテンが踊り出す。時々、左右の端が重なって、パレハを踊っているようだ。パレハとは男女が組んで踊る踊りで、フラメンコではそんな言い方をする。
本来、窓は採光と空気の入れ替えのためにあるものだ。しかし、都会暮らしをしていると、その機能を十分に発揮させられずにいることが多い。
休憩ついでに、我が家にいくつ“開かずの窓”があるか数えてみた。何と13カ所。別にはめ殺しではないのに、それだけの数の窓が一年中、閉じられている。家具を置いたために止むなく、開かない窓は仕方がないとしても、そのほとんどがそこに窓があることすら認識されていない。
ということは我が家は、かなり風通しが悪いわけだ。家にとって、風通しは大事である。その証拠に、人が住まなくなった家は、あっという間に廃墟になる。その痛み方は激しくかつ急速で、無人の家屋は家の屍という感じがする。
深呼吸ついでに、自分の身体について考えてみる。思えば私にとって身体は、家みたいなものだ。日頃、きちんと手入れをし、風通しを良くしているだろうか。いつも何かに追い立てられ、あくせくしている自分を思うと、とてもイエスとは答えられない。
では心の方は、と自問自答を繰り返す。私の中に、“開かずの窓”はいくつあるのかと。数えてみたら切りがないほど、それはありそうだ。
食わず嫌いだってそうだろうし、人の好き嫌いだって、それに当りそうだ。見聞きしたくないことには、目や耳を塞いでしまう自分を省みて、何やらガックリ。
風通しを良くしなくては。家も身体も心も人間関係も、何もかも。真の熟成は、そんなところから始まるのかもしれない。窓辺のダンスを眺めながら、ふとそう思う。
阿木燿子